ハートシフト

幸せについての考察

ハートシフト・サイトの記事更新はかなり間隔があいてしまいました。
エゴ、ハート、ハートシフトの記事は既にある程度書いていてアップしていないだけですが、このサイトをどう運用していこうか検討中です。

とりあえず、この記事では「幸せ」について書いていきます。
以下、ですます調ではなく、だである調で書きます。特に意味はなく、そのほうが書きやすいと思ったからです。

私たちが求めている幸せ

私たちが求めている幸せは、理想の達成から得るものである。

大金、理想の職業、大勢から承認されること、ちやほやされること、好きな人と結婚できること、理想の持ち家を手に入れること、ハーレム、性欲を満たすこと、権力、スポーツでの勝利、端正な顔、健康な肉体・・・

これらを得たら幸せになれると信じている。
「引き寄せの法則」がこんなにもてはやされるのは、理想を達成したいという願望からであろう。

なぜ、理想を達成したいかというと、幸せになりたいからだ。
幸せが最優先で、幸せを得る手段が上記に挙げたような理想である。

理想を達成すれば幸せが得られるか?

これらの理想を得ると確かに満たされる。
だが、本当に心の底から満たされるだろうか?

私は心の底から満たされることはなかった。

それはまだ理想を十分に達成していないからかもしれないが、そういう問題ではないことは確信している。
私はただ幸せになりたいのだ。
だが、理想を達成するだけでは幸せになれないというのは、自分の存在がおかしいのではないかと疑ったこともある。

幸せになれない私の探究

そこから探求が始まった。
長い探求の結果、分かったことは、私が理想を達成しても幸せになれないのは、自分じゃないほかのものを満たしているに過ぎなかったということだ。
たとえば、他者の幸せを満たしても、自分が幸せになるわけではないという感じだ。

どういうことかというと、たとえば、健康な身体、筋肉質な身体、端正な顔というのは、肉体の理想である。
これは「私=肉体」である場合、それが私の幸せとなる。

ところが、「私=肉体」ではない。そのため、肉体がどうなろうが、私の幸せではないのだ。

そのため、私が真に満たされることはない。あくまで「私=肉体」と錯覚している場合の幸せであるが、それは錯覚であるため、完全に満たされることはない。

私の本質とは何か?

私の本質は意識であり(もっと言えば進化する意識体)、肉体も思考も感情も感覚も私ではない。
性格や資質も私ではない。
ましてや、地位や職業や所属組織や所有物はまったく私ではない。

地位や職業や所有物が私ではないことは簡単に分かるだろう。明らかに分離しているからだ。

では、性格や資質はどうだろうか?
仮に性格や資質が変化したら、私の本質が変わるだろうか?
怒りっぽい性格から穏やかな性格に変わったら、「私」そのものが変わるだろうか?
変わらないはずだ。性格や資質自体が「私」ではない。

同様に感情や感覚も「私」ではない。
「私」が感情や感覚を感じているだけだ。感情そのものが「私」ではない。思考も同様だ。

肉体も「私」ではない。肉体の細胞は半年で入れ替わると言われているが、「私」はまったく変わっていない。
肉体が人工臓器で全て代替できるようになったとき、「私」という意識があれば、私は存在する。肉体がどのように変わろうが関係ない。
肉体は「私」ではない。

感情や思考や肉体をコントロールしているかのような主体

ここで、感情や思考や行動を自由にコントロールしている主体者がいるような錯覚があるだろう。

なぜ錯覚と書いたかというと、主体者の実体は存在しないからだ。
ところが、主体者の存在を想定しているため、あたかも存在しているかのように見える。

たとえば、ある彫刻を「神様」と人々が見なしたとしよう。
すると、ただの木の彫刻に過ぎないものが、神としての実体を持つようかのように思える。
人々がそう盲信すると、木の彫刻は神のエネルギーを発しているかのように感じ、人々の集合意識のエネルギーが実態を作っていくのである。

ところが、元はただの彫刻に過ぎない。

コントロールしているように見える主体者も同様である。
錯覚の「私」である。

この錯覚の「私」が「エゴ」と呼ばれるものだ。
以降、エゴの私を「私(エゴ)」と書き、本質の私を「私(本質)」と書く。

このエゴを「私(エゴ)」だと強烈に信じ込んでいる。

エゴを満たしても「私(本質)」は満たされない

冒頭に挙げた理想とは、このエゴを満たすものである。

つまり、私たちが求める幸せはエゴを満たすことに他ならない。
ところが、「私≠エゴ」であれば、エゴを満たしても、「私(本質)」は満たされない。

私は引き寄せの法則に価値を見出さないが、それは真の幸せに結びつかないからである。

真の幸せは「私(本質)」を満たすことである。
もっと正確に言えば、「私(本質)」は無条件に満たされており、そこに気づくことである。
満たす必要もなく、既に満たされている。

エゴは本当に思考や感情の主体者か?

エゴは感情や感覚や思考をコントロールできると信じているが、感情や感覚や思考は「私」が生じさせているものだろうか?

感情や思考を観察するとすぐにわかる。
思考はコントロールできない。
勝手に湧いてきている。

感情や思考は、環境と肉体情報との反応で生じているに過ぎない。
その反応から行動が生まれている。

感情や思考は「反応」で生じた産物

ただ「反応」があるに過ぎない。
ところが、エゴがその反応を生み出していると錯覚している。

もう一度言うが、エゴが感情や思考を生み出しているわけではない。
感情や思考は「反応」で生じた産物に過ぎない。

「反応」で生じた産物に気づいている意識

反応で生じた産物に気づいている意識がある。これが本質の私である。

これを青空(意識・本質)と雲(思考、感情、行動などの反応)に例えた人もいる。
ホワイトボード(意識・本質)とそこに書かれている文字(思考、感情、行動などの反応)に例えた人もいる。

意識そのものが思考しているわけではない。
意識がやっていることは気づくことだけである。

そのため、「私(本質)=観察者」とも呼ばれている。

感覚の理解を促すものがマインドフルネス

知的な理解も重要だが、感覚の理解が欠かせない。
感覚の理解を促すものがいわゆる瞑想と言われるもので、マインドフルネス、つまり、あらゆることに気づいている状態だ。

自己の本質を自己知覚すること

先に私の本質は「進化する意識体」と述べた。

この進化する意識体そのものを自己知覚するときに、愛を体感するわけだが、知覚範囲は限られている。

私はこの「自己知覚能力」を上げることこそが意識の進化であると捉えている。

つまり、意識が進化することで、自分の本質をより知れることになる。
自分の本質は強烈な愛のエネルギーであり、ここに真の幸せがある。

これが私が求めているものだ。

なぜこういうメカニズムになっているかは分からない。推測の域を出ない。

だが、なぜエゴが存在するかというのは分かる。

なぜエゴが存在するのか?

はじめからエゴなく自分の本質を理解して生きられたらどんなによいかと思うが、意識の進化という目的に沿えば、エゴがあることは合理的だ。

アメーバと昆虫では昆虫のほうが進化している。
昆虫と動物では動物のほうが進化している。
動物と人間では人間のほうが進化している。

簡単に言えば、アメーバのほうが単純で、人間のほうが複雑だ。
この「複雑さ」が進化とすれば、エゴによってさまざまな思考、感情、行動の反応が生じることは複雑さを生む。
この複雑さから生じるプロセスが進化を生み出す。

エゴは必要悪ではなく、意識の進化のための必要なプロセスであり、私を錯覚視しているのも進化の必然であると捉えている。

エゴの幸せを求めるのも必然で必要なこと

そのため、エゴの幸せを求めることもまた必然であり、それが決して悪いことではない。そのプロセスを経なければならない。
そういった人が劣っているわけでもダメなわけでもない。
むしろ、本当は欲しいのに背伸びして欲しがらないようにしている人ほど進化は停滞する。

エゴの幸せでは満足できない人たちへ

私は「エゴの幸せを求めるな」とは言っていない。
むしろ、エゴの幸せをどんどん求めたほうがいいと思う。
引き寄せの法則も大いに結構だ。

「私(本質)」と離れている状態で、いくら外部的幸福条件を満たそうが(条件付き愛)、魂は満足しない。

それを繊細に捉えられる人は、「私(本質)」につながっていき、無条件の愛を知るほかない。

エゴの幸せを満たそうとすることで複雑さ、進化が起こるが、中にはその段階を卒業しようとしている人たちが存在する。

今の時代、そういう人たちが増えていると思う。
自己の本質を知り、真の幸せを得ようとする段階に入っている。

そういった人は、エゴの幸せに違和感を持つ。社会から与えられた幸せでは満足しない。
そして、それを「仕方ない」と割り切らせることを魂がさせない。

そういった人は、錯覚に気づくとともに、意識の進化に取り組んでいく必要がある。

それがあなたが真に求めるものだからだ。

自分が満ちた状態でやる行為は、すべてハートの行動と呼べる。
幸せな人が、ただ生きるだけだ。

苦悩がないわけではない。苦悩を味わえることすら素晴らしい体験だ。

エゴのあらゆる反応を観察し、味わおう!

意識の進化というのは、今自分に与えられた課題に取り組むことで得られる。
今の段階での課題は人それぞれだが、大きく言えば、エゴと二人三脚でやっていく課題である。つまり、エゴを必要とした取り組みである。
その取り組みが終われば、自然にエゴは必要な役割を終える。

エゴを悪者にするのではなく、エゴは私たちの今の進化に欠かせないパートナーである。エゴを愛し、エゴの反応をしっかり見ることだ。

最愛のパートナーとの体験をしっかり味わう(観察する)ことだ。

観察者として、エゴのあらゆる反応を観察し、しっかり感じること。

感情を閉ざすことは進化を閉ざすこと

感情はエゴの反応である。感情を閉ざすことは、進化を閉ざすことに等しい。そのため、感情を閉ざすことは私たちにとっての悪影響が甚だしい。

カウンセリングは日常の苦しみを扱うため、感情を感じることを説いている。苦しくて抑圧した感情が自己肯定感を低める元凶になっており、それを解き放つことで、自己肯定感を高め、生きやすくなる。

もっと深い目的は、それらのプロセスが意識の進化になっているということである。カウンセリングでもそこを意図している。但し、理解が難しいと思われるので、カウンセリングでその話ができるのはほんの一部の人に限られる。

このサイトは、エゴの幸せに違和感を持った人たちが、意識の進化のステップを歩み出すヒントになることを意図して書いていこうと思う。

エゴの幸せに違和感を持ち、この世界に生きづらさを覚え、真の幸せを得たいと心から望む人たちに愛を込めて。

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