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エゴにとって罪意識は根底にあるもの
エゴは大いなる存在から分離して存在していることが原罪であり、根本的な恐れである、と以前の記事で書きました。
そういう意味で罪意識は一番深い恐れかもしれませんね。
エゴは罪を犯すことを強く嫌う
エゴは罪を強く嫌います。
罪を犯した人の扱いを見てみてください。
ホント、非人間的な扱いです。
だから、罪を犯すことをすごく恐れていますね。
そして、自分が罪人であることを恐れています。
本当は罪(過ち)などない
罪は過ちとも言えます。
過ちをするのはどうしてですか?
過ちから学ぶためです。否、本当は過ちなどないのです。自分にとって不都合なことを「過ち」だとしているだけです。
ただ体験があるだけ
過ちではなかったらどうでしょうか。
ただ、人生の体験をし、結果があり、それを受け取る。それだけです。
結果が悪くなる体験を「失敗」と呼びます。
結果がよい体験を「成功」と呼びます。
結果を気にしなければ、成功も失敗もありません。
ただの体験があるだけです。
過ちを恐れると人生が停滞する
過ちを恐れると、失敗を恐れます。
失敗を恐れるとどうなるかというと、人生が止まるのです。
停滞します。動かなくなります。リスクを恐れてチャレンジしなくなります。
そうなると成長がなく、魂が計画している道のりから外れてしまいます。
結果、魂からも遠ざかっていきます。
罪や罰は人間の都合でできたものに過ぎない
本来は罪や過ちなどありません。ただの概念です。
もちろん、集団生活を成り立たせる上で、法律や倫理、価値観はありますが、それは人間の都合でできたものです。
創造主が作ったものではありません。
罪や過ちは、人間の都合、エゴの都合の産物なのです。
ハートで生きる人は罪や失敗を握りしめない
ハートで生きている人は、失敗を失敗と見なしません。
失敗を過ちや罪とは見なしません。
経験として受け取るだけです。
それを受け取りながらも握り締めません。
いつまでも過去の過ちや罪に縛られません。
ハートで生きる人は罪人であっても気にしない
ハートで生きている人は、罪などないことを理解していますが、罪人であったとしても気にしません。
自他の罪を許します。
迷惑をかけることを恐れないでください。
集団のためにならないこと、役立たないことをやることを恐れないでください。
それがハートであれば、喜びであれば、それそのものがゴールです。